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 お金 貧困のきっかけ
 
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京都の加藤泰三という父と大阪の住野三重子が結婚して生まれた私は、両家とも裕福でも貧乏でもない家で、普通の家庭だったと聞く。

父と母の暖かな笑顔に包まれて幸せに過ごした記憶は幼少といえども鮮明に覚えている。

不幸が始まったのは、小学一年の時だった。父は関西学院大学を出て造船会社に勤めたあと、自分で100人程の従業員を抱える機械工場を大阪で経営していた。その会社が大きな不渡り手形のために倒産し、夜逃げ同然で家族全員が日本海の舞鶴市の親戚宅へ引っ越した。

父は土地を借りて養鶏を始めた。家族全員で毎日、木製の鶏舎を作ったり、雑草を抜いて整地したり、のどかな風景の中で楽しく仕事を手伝った。鶏も順調に増えて、最盛期には数万羽になっていた。毎日鶏卵を集め、市場へ運んで収入も増えていたらしい。

ところが、ある日鶏が一斉に病気にかかり伝染して一週間で全滅状態になった。当時はなす術もなく、毎日毎日死骸を燃やした。借金で始めた養鶏が借金が残った状態で二度目の倒産をしたのだ。

親父は仕事を見つけに行くといって単身大阪へ行った。建設会社に勤めて少しの仕送りがあったのも半年程だったと聞く。酒におぼれ、女をつくってそれに収入は回ったらしい。

残された母と三人の兄弟は、裁判所の差し押さえで最小限の衣類に布団一枚と小さな鏡を残して全ての家財道具や衣類までも失くした。家は親戚の持ち物だから残ったが、翌日からは電気も水道も止められた。

母は青果市場の事務員として働きに行ったが、安い給料も毎月返済に追われて兄弟三人はいつも空腹だった。学校から帰ったら三人で山に入って、食えるものは何でも採った。夜になると兄弟は閉店後の魚屋を回った。猫が漁るアラを持って帰って薪を焚いてわずかに残る身を焼いて食った。

歯磨きを買う金もないから担任の先生が来て、塩で良いから指で歯を磨きなさいと云ってくれた。ゴムの靴は穴が空いても履いていた。風呂など入れる訳がないから、顔は浮浪者そのものだった。

それでも年末の31日の夜遅くに帰ってくる母は、風呂桶を持って銭湯へ連れて行ってくれた。正月はお餅が食えたことが何より嬉しかった。

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