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 お金 別離

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貧乏に耐えかねた母はキャバレーで働くようになった。毎晩、酔って帰ってくる母が嫌だった。それでも、生活は少し良くなった。クリスマスなどは余った甘いケーキをいっぱい持って帰ってきた。

そんな生活も突然変わる事になる。兄弟三人を母だけで育てるのは理屈に合わないと母方の親戚が話し合い、父方の親戚と父に預けるべきだと相談をしたらしい。

事情を聞かされないまま私と次男と母は堺の南海電車、諏訪ノ森駅を降りた。迎えに来ていた父の兄と四人で商店街を兄の家へ向かって歩いていたとき、母が突然「ちょっと買い物に行くから」といって電車の方向へ引き返した。翌日から弟と二人、朝から夜まで諏訪ノ森の駅で母を待った。

一週間くらい毎日駅で待った。弟に舞鶴へ帰ろうと駅で言った。

どの電車に乗ったのか、どこから歩いたのか、全く記憶がない。一円の金も持たず、飲むものも食うものも持たず、着の身着のままでひたすら舞鶴へ向かったのだろう。何日かかったのかも覚えていないが、崎田アパートの四畳半に着いたとき、隣の水船さん老夫婦がびっくりして迎えてくれた。「よく帰ってきた、よく帰ってきた」と老夫婦が溢れる涙で迎えてくれた。

外出から帰った母も、涙で声にならなかった。「もう離さへん、かんにん、かんにん」といつまでも母は泣いた。三男は二人がいない間に大阪で女と暮らす父に預けられていなかったが、これをきっかけに、水船さんが末っ子も呼び戻しなさいと云ってくれて、一週間後には兄弟三人と母が暮らすようになった。

このときの記憶は親兄弟といえども疑心暗鬼の気をもち、周りに対する警戒心を持つ事を無意識のうちに植えつけられたと思っている。

大人になってから母に捨てられたことを嫌な思いとして母にぶつけたこともあったが、涙する母を見ると致し方なかったんだと思えるようになった。

数年前に亡くなった母を送るときにも、仕方なかったんだよ、気に留めないで楽になってくださいねと云った。

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