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 友人 独身時代

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高校を卒業して800人の京都機械に入社した時は同時に30人が入社した。いわゆる高度経済成長の始まる時期。高卒と大卒が入り交じっていたが、大卒が鼻高々で高卒を見下ろすような視線と話し方が大嫌いだったから、自ずと高卒の中に友人ができた。

居藤君はサッカー部を二人で設立した最も心許せる友人になっていった。同じく栗田君も洛陽工業高校卒の友人で遊び仲間。彼は学生時代に相当の悪だったと云う。彼の自宅は北区でよく遊びに行った。当時自動チェンジャーのステレオを持っていて、ジャズを初めて聴かされた。感動してそれ以来ジャズが好きになった。会社を二人でずる休みして街で遊んだものだ。

河原町の繁華街でひっかけといってナンパをよくやった。一晩に何人引っかけたかを競ったりもした。二人で琵琶湖の遊覧船に乗ったときに神戸から来ていた女の子二人に声をかけてナンパした。その日は船だけだったけど電話で約束して付き合いが始まった。きみ子という人で栗田やその友達の村上等6人で敦賀でキャンプしたのが新鮮に思い出される。

会社の向かいにある一誠寮には二十人ほどの独身社員が入っていた。六畳に同居したのが高木。彼は几帳面な性格で馬が合わなかったがサッカーもあって今でもつきあっている。だけど高木は面と向かって加藤は嫌いだと云っている。

寮には後輩の組橋、吉田が俺を慕ってくれた。共にサッカーをしたこともあるのだが、当時の私の会社員らしからぬダイナミックな言動を尊敬していたようだ。その両方とも退社したのだが、私が事業を興してしばらくして組橋の奥さんから死んだという手紙を受け取った。呆然と手紙を見つめ、直ぐさま高松行きの飛行機に乗ってレンタカーで組橋宅を訪ねた。

居藤や吉田と四人で組橋宅に泊まって飯蛸を釣ったりみかんを収穫して遊んだ土地だ。その自宅にはお兄さんが住んでいるが香川県議会の議長だ。組橋は結婚して別の家に入ったが、交通事故に巻き込まれて体に重い障害が残りほとんど入院生活だったと聞いた。最後は薬も効かなくなって死んだと云われる。

仏前に飾られた写真を見て私は声に出して泣いた。嗚咽は隣の家でも聞こえたと思う。残念で残念でたまらなかった。なにもしてやれなかった自分の無力さが悲しかった。仏前に札束を積んだ。それしかできなかった。奥さんは三人の子供を全て大学まで自力で卒業させてたと後の手紙にある。


寮ではジャズを聴きに会社の近くのジロという喫茶店によく行った。そこに芳岡が毎晩来ていたから必然仲良くなった。彼は5歳年上。木工所の三男で役員をしていた。ジロのマスターと芳岡と私でよく中華を食いに行った。

私が自分が加害者の大事故を起こして弁償に困ったとき、木工所で夜にアルバイトをさせてくれた。会社が終わったら直ぐに自転車で駆けつけ、社長の指示で木工をやった。私は器用なので腕前はどんどんあがり、職人さんに負けない仕事ができるようになった。その稼ぎで事故の弁償を精算できたのです。

芳岡がボーイスカウトをしていたときの後輩で私のひとつ上の川島も芳岡と一緒に遊んだ仲間。彼はデザインの仕事を自宅でしていて仕事中でも組橋や吉田と入り込んで今から日本海へキャンプに行こうと連れ出したりした。気の小さいところがあって大きな金は扱えなかった。

私が結婚する頃には大勢の友人がいて、結婚披露宴はその友人達で溢れかえったことを思い出す。その誰もと心分かち合い、砕けて話ができた

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