--------------------------------------------------------------------
 政治活動 労働組合

--------------------------------------------------------------------
神戸のきみちゃんと二十歳の恋が終わり、何もしたくない空白の時間が過ぎてゆく。仕事が終わると自転車でジャズを聴きに通った。しかし、気が晴れるでなく、悶々とした日々を過ごしながら鏡に向かって泣く自分がいた。

当時、休日に会社の若者が集まって、ハイキングによく行った。主催者は民青組織の連中とは知らなかった。組合の青年部を隠れ蓑にしてハイキングに誘い、続いて集会に誘って民青への勧誘を図っていた。

彼らの言っていることに共鳴し始めた。というのも少年時代に極貧の生活を送り、苦しみの中で耐えて生きてきた私が、社会に出て感じたのは何故自分たちだけが極貧だったのかという疑問だった。

その根底にある気持ちには世に対する恨みのようなものを持っていたのだろうと思う。貧富の差は搾取や制度のよって支えられ、片方は極貧で片方は優雅に過ごす。矛盾感を深めていった。反権力に自分の気持ちが傾いていった。そして民青に入った。

会社が引けると尾行を気にしながらアジトに集まり、会合では組織拡大や民青新聞の拡販が目標化され、誰が何時、誰に勧誘するか、実現不可能な過大な目標が掲げられた。

私は素直に目標に向かって行動し、仲間の中で一番の成績を上げていた。そんな折り、組合役員選挙が始まった。私は民青組織に言って執行委員に立候補したいと訴えた。目的は会社の犬と化した組合を変えたかったからだ。選挙戦は民青が動くから、会社もしっかりした奴を立候補させて闘う激しいものだった。

結果は会社寄りの組合長と書記長。反会社側が執行委員三人。どちらにでも付く執行委員が二人。議題によっては会社に都合のよい決定もあるし。都合の悪い決定もある。拮抗した勢力図では論戦で中間をいかに引きつけるかが勝負だったが、論客は私だった。

春闘が始まった。最初から無期限ストを打って大幅賃上げを獲得すると決めていた私は、団交の席でも慣例に反して組合長や書記長を押しのけて大きな声で自分の主張を繰り返した。交渉はもつれていき組合としてはストを打つかどうかの決断を迫られた。ここでも私の論理が筋が通るのを中間の二人は感じ取り、無期限ストに突入した。実に25年ぶりのスト。

組合員の意気を上げる方法には私のアイディアで事欠かなかった。シュプレヒコールは「騙して貯めた金を吐き出せ〜」。これをビルにいる社長や役員めがけて前組合員が拳で叫んだ。構内デモで鬱憤を晴らした。円山公園では我が組合の応援集会が開かれ、私は二千人の集会者の前で目をギラギラさせながら三十分のアジ演説を行った。演壇の私を見る我が組合員は興奮が高まった。

そうして一ヶ月が経ちストの解決のために裁判所の仲介が入ることになった。よもや裁判所にまでと怖がってきた中間派の一人は裁判所で倒れて救急車で運ばれた。結局、なあなあの仲介を呑まざるを得なかったのだが、この一ヶ月のストには大きな企みがあった。

25年間の無ストは多くのスト対策積立金があり、ストでも生活には困らなかったが、会社にとっては使い切って欲しい金なのだ。使い切れば何度もできない。案の定、次の年から会社の良いなりになるしかなかった。これは会社と相談した組合長と書記長の企てでもあると気付かなかった私が愚かでした。

三期執行委員を務めることになりますが、次の章に話を移します。

--------------------------------------------------------------------

 

←前へ    私の履歴書 目次へ↑    次へ→