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 体の運動 サッカー

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綾部高校に入ってすぐにサッカーを始めた。そのころの私は背も低く体も小さくて中学生くらいだった。同級生10人がサッカー部に入ったが私が一番小さかった。

それでも練習は熱心にやった。冬の雪が溶けだしてべちゃべちゃのグランドで足が凍えそうな練習も、真夏のからっからに焼け付いたグランドでも走り回った。どんどん上手くなっていく自分が嬉しかった。

練習が終わって夕焼けの下、寮へ帰るとアルミの茶碗に山盛りに飯を盛って何杯も食った。おかずがないと醤油をかけてかき込んだ。何を食っても美味かった時代。

高校を卒業して京都機械に入社した時、居藤君は瀬田高卒でサッカーをやっていたことが直ぐに分かった。二人で会社にサッカー部を作った。昼休みに屋上のコンクリートでボールを蹴っていると同級生でサッカーをしたことのない人も加わるようになった。

その数15人ぐらいの時から水土の週二回、吉祥院グランドのナイターで三時間の練習を始めた。居藤がキャップでどんどん先輩が入部して皆が上達し、練習試合もどんどんこなしていく。そのころの京都社会人リーグは紫光クラブという先生中心のクラブがリーグの優勝をさらっていた。今のパープルサンガの前身。

我々も京都社会人リーグに加盟し、2年で一部リーグに昇格した。その後も上達と体力の向上は激しく、四年目で京都社会人リーグの優勝戦に到達した。当然相手は紫光クラブ。

私はフォワードのインナーで8番。居藤と加藤が同じくらい得点するだけ実力が伯仲していた。自ずとアシストもお互いが一番多かった。

決勝戦の西京極球場は完璧な芝生グランドで、我々は芝生の経験がなかった。前半は0−0で互角に折り返した。後半に紫光に先制された。その直後、居藤から縦パスを見事に請けた私が相手のバックをすり抜けてキーパーと向き合った。次の瞬間ゴールゲットの右足が芝生に噛んでいつものシュートが飛ばなかった。

結局、二位で関西リーグとの入れ替え戦の参加資格は失った。

そのころから共産党の活動に足を突っ込み、サッカーの練習にでる回数が極端に減った。だけど試合になると居藤キャップは加藤を使わざるを得なかったのは戦力としての実力だった。だけど、私は居藤に云った「練習を頑張ってる奴を出せ」と。

その後会社の衰退と並行してサッカー部の人数も成績も落ち込んで最後は四部リーグで戦った。私が45歳の時です。16歳から始めたサッカーが人生で最も長い付き合いになりました。

サッカーをやめてJリーグができましたがサッカー協会の偉いさんの納得できない言動を嫌と云うほど知っている私は、リーグの運営に当たっている人々が嫌いでJリーグは見ません。

一方、いろんな問題がありますがワールドカップは、青年時代に夢に見たステージ。朝まででも放映にかじりつきますね。そして感動します。

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